弔 辞        西條八束  


  弔 辞                
 大島さん
 こうして白にピンクを混えた美しい祭壇に飾られたお写真を見ていると、いろいろなことが思い出されます。
 大島さんは よくその上衣を着ておられましたね。 特に思い出されるのは、大島さんが 多喜二・百合子賞を受けられたお祝いの会の時のことです。
奥様は既に体調をくずされ、おみ足が不自由なようでしたが、喜びに輝いておられました。 私の姉、三井嫩子が まだ元気でいて「大島さん、コミュニストのくせに奥さんを働かせてばかりいて、 お酒を飲んでいてはだめじゃないの」などと、型破りな お祝いの言葉を述べたことを思い出します。
 しかしその約八年後に、奥様は長い闘病の末に他界されてしまいました。
 奥様は、生涯 献身的に働らいて、病気がちの大島さんを支えてこられました。
大島さんの詩集「老いたるオルフェ」の巻頭の奥様の「自画像」のように、画家としての相当な腕をもって おられたのに、御自身のお仕事はされず、花屋で生活を支えながら、「大島博光全詩集」の刊行までやり遂げられました。

 話は変わりますが、大島さんは、私の父が教えていた早稲田の仏文学科を卒業された後、一九三五年から四二年まで、父が主宰していた詩の雑誌「蝋人形」の編集をしておられました。私の父は大島さんのフランス語の抜群な実力を高く評価しておりました。
 「蝋人形」の編集といっても、そのお仕事は私の家の茶の間でしておられました。
それは私が小学校五、六年生から、旧制松本高等学校に入学するまでの時期で、この間 ほとんど毎日 大島さんとお目にかかっていたことになります。
 私が詩人の家に生まれたと言っても、和洋の文学書が家に沢山あっただけで、家庭内に芸術的な雰囲気はほとんどありませんでした。
そういう中で大島さんは、私がまだ中学二、三年生のころから私をクラシックの音楽会に連れて行って下さったり、バッハやモーツァルトのレコードを聴くことをすすめて下さったりしました。また浜田浜夫さんを始め、何人かの画家のアトリエにまで私を連れて行って下さいました。
 私は自然科学者として生きてきましたが、自分の専門以外の音楽とか絵画のような豊かな精神的世界を楽しめるようになったのは、ひとえに大島さんのお蔭だと思い、深く感謝しております。
 最愛の奥様をなくされ、大島さんご自身も入退院をくり返しておられたのに、晩年の十数年間、驚くほど精力的にお仕事をなさり、多くの優れた著書、訳詩集を世に出されました。
 私自身 八十歳を過ぎた現在、これからの限られた時間を大島さんにならって、精一杯に生きていきたいと思います。
 大島さん、長い間 本当にありがとうございました。
 今こそ 奥様のもとへ行かれて ゆっくり たのしく おやすみ下さい。

      二〇〇六年一月十三日
                                   西條八束