希望の火 



   希望の火             尾池和子 

「詩は悲しみから始まった。十三歳の時にママンが死んでからだ。」
下連雀のご自宅へお手伝いに伺ったのは、二千年の初夏でした。やがて中庭の美女柳が黄色い花火のような花をつけ、葉が雨に緑濃く見える頃、折りに触れ詩の話をしてくださるようになりました。

その頃はゴーシュロンの『不寝番』を訳されている最中で「こういうものは若いときには訳せないよ、フランス語を習い立ての頃は余裕がないもの。いろいろ体験をしたり、感じたりして、こういうことかとわかるよ。老練だよ。長生きしたんだから、やらなくちゃもったいないよ。」そうおっしゃって、濃茶の太縁の眼鏡をかけられ、日に一時間、二時間と机に向かわれました。時には「詩がどんどん出てくるから夜中に起きて書いたよ。」という日もあり、詩訳はやはり詩人でなくては、と選ばれた言葉はチラシや何かのお知らせの裏に書き留められ、まとまると緑色の升目の原稿用紙に書き写されるのでした。文頭に魚形の鉄製の文鎮を置かれると、ひじの下に左手の甲を添え、右手で筆をもつように万年筆をとられ、ブルーブラックのインクをたっぷりとつけると、ひと呼吸おき、そっとペン先をおろされるのでした。

「魂は売らない、絶対売らない、野たれ死んでも売らない。」
同時にご自分の詩作にも励まれ、「状況詩」を書かれるその根底には、人のための愛がある詩、人間の高みをうたう詩を書きたいという強い思いがあり、それは現実をみつめ、日常や生き方そのものをそこに持ってこなければ生まれないと考えられていました。詩を書けるよう体調維持のために、歩行の不自由さを押して〈我がロシナンテ〉と呼ぶ車椅子で毎日のように散歩に出られましたが、しばしば体調をくずされることがありました。めまいの後の床の中でも頭床台のメモを取り上げられ、「死の予習だ、生が終わり死が始まる。」と書き付けられるのでした。

一九二八年十八歳の頃、三里の道を自転車で行き長野の町で見たという映画『レ・ミゼラブル』から、ランボオ、アラゴンへ続くとフランス詩、フランスに対する敬愛の念は最晩年も変わることなく、のちに病床へフランスから送られてくるアラゴン研究の論文集を読まれ、「おもしろいよぉ、わたしにまだ仕事をする力があったら、紹介したいくらいだ。」と瞳が輝きを持ちました。またアラゴンの『薔薇と木犀草』がジュリエット・グレコの歌うシャンソンになっていることを知られ、「革命の詩が文化として伝統に生きているわけだ。それがフランスなんだね。」と微笑されました。

九十の一人暮らしを案じられ、代わる代わる訪れるご家族を、かえって気遣われる様子に、 悲しみから始まりやがてひとびとに希望の火を掲げてきた詩人の、ご自身の希望の火も消えることのないようお手伝したいと思ったのでした。たとえ、それが「美味しいものを食べたい」という、小さな小さな火を絶やさないようにすることしか、私には出来なかったとしても。
                    



尾池和子さんは別のお仕事を持ちながら、ヘルパーとして父の世話をして下さっていました。フランス語ができるので、フランスの文献の取り寄せやアラゴン協会、ゴーシュロンとの連絡など、秘書の役割もしてくれました。自分を理解し、知的で美しい尾池さんを父はとても気に入って頼りにしていたと思います。父が入院してからは、お仕事が終わってから毎週何回も病院を訪れて話し相手になって、献身的に支えてくれました。父が最晩年、病院で安心して過ごせたのも、肉親が聞けなかった若い時代の思い出話などを聞き出せたのも彼女のおかげで、心から感謝しています。大島朋光