アントニオ・マチャードの墓
その後、マチャードは『戦争中の詩』を書いて、ファシストたちとたたかう。一九三七年七月、ヴァレンシアでひらかれた第二回「反ファシスム文化擁護世界大会」に参加する。この会議には、フランスからアラゴンやジャン・カッスーなどが参加していた。
一九三八年、ファシスト軍の優勢の中、マチャードはヴァルセロナに移る。しかし、ファシスト軍の追及を逃れるため、一九三九年一月二二日、ヴァルセロナを脱出する。彼は亡命する義勇兵や難民の長い行列のなかに加って、ピレネーの「稲妻のような山道」を越えて、フランスへと向かう。二月二二日、地中海に面したフランスのコリウールに辿り着くが、疲労と心痛の果て、そこの小さなホテルで息をひきとる。六三歳だった。
だいぶ以前のこと、マドリードを訪れた、その帰途、わたしはコリウールで下車してマチャードの墓に詣でたことがある。コリウールは地中海に面したリゾートの地で、マチスが『窓』を描いて、フォヴィスムの旗上げをした地としても知られる。
墓地は、町の入り口にある、鈴懸けの並んだ小さな広場から、西へ数百メートル行ったところにあった。海を見おろす、海辺の高台の墓地で、糸杉が二、三本生えていた。ちょうど墓詣りに来ていた土地の老婆がマチャードの墓を教えてくれた。
フランスの詩人ジャン・カッスーはひとつのソネットをマチャードにささげている。
そこであなたは 見いだすだろう
あの涙にくれた 深い夏の匂いを
コリウールの 墓石のほとりに
そこに囚われびとは 朽ちはてて、
うち砕かれた 怒りの壷のほか
もう 何ひとつ 残らないだろう
そしてわたしもつぎのような詩をマチャードの墓にささげた。
(『マチャード/アルベルティ詩集』)