ルイ・パロはこの詩について書く
「・・・・この詩は初め『フォンテーヌ』(泉)誌に掲載されて、たちまち成功を収めた。オーディジオはマルセイユで公然とこの詩を朗読した。マックス・ポル・フーシェは、連合軍の通信員たちにこの詩を紹介し、わたしはわたしで、クレルモン・フェランにおける会議の折、これを朗読した。そこには、オーヴェルニュ地方におけるレジスタンスの最初の指導者たちが集まつていた。いたるところで、この詩はひとびとの情熱をかきたて、気力を呼びさました。それは占領地帯からわれわれのところへ送られてきた希望のメッセージであり、あの囚人たちがしばしば独房からわれわれに伝えるのに成功したメッセージにも似ていた。RAF(英空軍機)がこの詩を空からフランスじゅうにばら撒いた」(『戦時下の知識人たち』)
またのちに、エリュアールじしんがこの詩についてつぎのように語っている。
「わたしはこの詩を1941年に書いた。
金塗りの 絵本のうえに
戦士たちの 武器のうえに
王たちの かんむりのうえに
わたしは書く きみの名を
これら最初の数節を書きながら、わたしは最後のしめくくりには、愛していた女の名まえをかかげようと考えていた。この詩は彼女にささげることになっていた。だがすぐ、わたしの頭に自由という言葉がひらめいたのに気がついた。
力強い ひとつの言葉にはげまされて
わたしは ふたたび人生を始める
わたしは生まれてきた きみを知るために
きみの名を 呼ぶために
白由よ
こうしてわたしの愛していた女性は、彼女よりもはるかに大きな願望を具象化することになつた。そしてこの自由という言葉は、わたしの詩においては、きわめて日常的な、みんなが心を傾けている、きわめて単純な意志−占領軍から自分を解放するという意志を強調するものにほかならなかった」
1942年の末から、自由という言葉はフランス人民にとってほとんど空語であった。(ナチス・ドイツ)占領軍による恐怖(テロ)と圧制によって、人びとのなかには絶望、屈服、卑屈さが生まれ、自由は奪われ、失われていた。その自由という言葉が、エリュアールのこの詩によってふたたび生きいきとした内実をもって、人びとに呼びかけた。「小学生のノート」や「樹の幹」や「机」のうえに、誰もが書いたような愛の名まえ、愛のしぐさ−エリュアールはこのすべての人に共同の愛のしぐさ、共同の希求によって、自由を感じとられるものとして歌いだしたのである。それはどんなにか絶望と不安のなかに落ちこんでいた人びとをはげまし、希望を与えたことだろう。
(新日本新書『エリュアール』)
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